【中古】 Dvorak ドボルザーク / Comp.symphinies: Suitner / Skb 【CD】

현지 판매가격(엔)
4,180 엔
원화 판매가격(원)
39,310 원

총 금액 : 0원


状態可状態詳細5枚組み中古商品のご購入について※中古商品の状態、仕様、内容等に関するお問い合わせはお受けできません※中古商品にはサイト上に記載がある場合でも、封入/外付け特典は付属いたしません>>その他注意事項(必ずご確認ください)出荷目安の詳細はこちら商品説明(こちらは新品の商品説明となります。参考として下さいませ。中古商品にはサイト上に記載がある場合でも、封入/外付け特典は付属いたしません。) スイトナー/ドヴォルザーク交響曲全集(5CD)オトマール・スイトナーの遺した録音資産の中でも特に人気の高いドヴォルザーク交響曲全集が新たなマスタリングで登場。  スイトナーは、ドヴォルザークの交響曲は番号をさかのぼるほど演奏が難しくなると語っており、全集録音に際しては、ヴァーツラフ・ターリヒの弟子でスメタナ劇場(現プラハ国立歌劇場)の指揮者ルドルフ・ヴァシャタ[1911–1982]から、ターリヒの楽譜をもとにしたフレージングのアドヴァイスを受けてもいました。  速めのテンポで一貫しながらも、劇場的なイディオムともいうべき多彩な表情が随所に浮かび上がるのは、そうしたスイトナーの入念な準備が反映されていたからかもしれません。  今回は、最良のマスターからの制作ということなので、シュターツカペレ・ベルリンの演奏の魅力がさらに高まるものと思われます。  ブックレットには、オリジナルLPジャケットの写真のほか、今回使用したBerlin Classicsが所蔵する、ETERNA時代のオリジナル・マスターテープの箱の写真も多数掲載。  マスタリング・エンジニアは近年評判の良いクリストフ・シュティッケル。 マスタリングについて〜クリストフ・シュティッケル(マスタリング・エンジニア)ETERNAテープをリマスタリングする際の前提は、オリジナル・サウンドを変えることなく可能な限り最高の状態でオリジナル・サウンドを再現することでした。全ての作業はオリジナルのアナログ・マスターテープに基づいています。マスタリングはそれぞれのテープに対して細心の注意を払って行われました。アナログ領域のみでサウンド処理されたアナログ信号を96kHz / 24bitの高品位デジタル化後に44.1kHz / 16bit化されました。また、デジタル領域においてもノイズの除去や、オリジナル・サウンドに影響を与えるその他の修復は行わず、必要最小限のテープ・エラーとテクニカル・クリックのみの修復が行われました。 スイトナーのドヴォルザークドヴォルザークは20代から交響曲を書きはじめており、24歳で書いた第1番、第2番共に45分前後というかなりの力作で、30代前半には第3番、第4番、第5番を書き上げていました。  これら5曲はすべてブラームスの交響曲第1番が完成する前に作曲されたもので、ワーグナーからの直接的な影響が認められる曲も多いのが特徴でもあります。  そして30代後半から40代の終わりにかけては第6番、第7番、第8番を作曲、そして50代で第9番を書いています。  9曲に共通するのは、はっきりした性格の旋律と克明なリズムの存在です。オペラをたくさん書いた作曲家でもあったドヴォルザークらしく、いくつもの旋律を投入したうえで、素材をドラマティックに展開、絡めあうさまは劇場的でもあり、通常のソナタ形式的なアプローチよりも、オペラ経験の多い指揮者の方が面白くなる可能性があると思います。  スイトナーはその点で適任と言えますし、オーケストラも、膨大な数のオペラ経験を持つシュターツカペレ・ベルリンということで、まず前提条件として申しぶんないのがこの全集です。  ドヴォルザークの旋律創造能力は図抜けたものがあったといいますが、それがわかりやすいのが緩徐楽章でもあり、交響曲第4番第2楽章など、ここではオペラの一場面のようにも聴こえます。妙に整理したりせず、それぞれの素材を十分な重みをもって響かせるスイトナーの手法は、もしかしたら劇場的観点からドヴォルザークの諸相に迫るものなのかもしれません。 録音会場レコーディングがおこなわれたのは東ベルリンの「キリスト教会」で、西ベルリンの「イエス・キリスト教会」と並んで録音の多いことでも有名な教会。 収録情報Disc 1交響曲第1番ハ短調 op.3『ズロニツェの鐘』録音時期:1979年8月27〜30日Disc 2交響曲第2番変ロ長調 op.4録音時期:1979年10月23〜25日交響曲第3番変ホ長調 op.10録音時期:1978年7月5〜9日Disc 3 交響曲第4番ニ短調 op.13録音時期:1980年12月15〜19日交響曲第5番ヘ長調 op.76録音時期:1977年11月25〜28日Disc 4交響曲第6番ニ長調 op.60録音時期:1979年7月2日、1980年2月18〜19日交響曲第7番ニ短調 op.70録音時期:1981年2月22〜26日Disc 5交響曲第8番ト長調 op.88録音時期:1977年7月11〜15日交響曲第9番ホ短調 op.95『新世界より』録音時期:1978年3月29〜31日、4月1日シュターツカペレ・ベルリンオトマール・スイトナー(指揮)録音場所:ベルリン、キリスト教会録音方式:ステレオ(セッション) 各種リンク【トピック】●インスブルック大管区首都音楽学校●ザルツブルク・モーツァルテウム国立音楽院●インスブルック帝国大管区テアター●招集●ピアニスト●レムシャイト市立テアター●ベルリン交響楽団●プファルツ管弦楽団●ドレスデン国立歌劇場●ベルリン国立歌劇場●NHK交響楽団【年表】1922・1923・1924・1925・1926・1927・1928・1929・1930・1931・1932・1933・1934・1935・1936・1937・1938・1939・1940・1941・1942・1943・1944・1945・1946・1947・1948・1949・1950・1951・1952・1953・1954・1955・1956・1957・1958・1959・1960・1961・1962・1963・1964・1965・1966・1967・1968・1969・1970・1971・1972・1973・1974・1975・1976・1977・1978・1979・1980・1981・1982・1983・1984・1985・1986・1987・1988・1989・1990・1991・1992・1993・1994・1995・1996・1997・1998・1999・2000・2001・2002・2003・2004・2005・2006・2007・2008・2009・2010【その他】●商品説明:年表シリーズ一覧 表記について歴史の長いドイツやオーストリアの劇場では、政変による上演組織名の変更や、劇場名の変更、破壊による本拠地の変更など、紛らわしいケースが多いため、ここでは上演組織を「オペラ」や「テアター」、建築物を「歌劇場」や「劇場」としておきます。「テアター」は、主にオペラと演劇などを上演する組織で、「劇場」はその本拠地の建築物であることが多いようです。例:ドレスデン国立オペラの拠点がドレスデン国立劇場この場合、ドレスデン国立オペラの元々の本拠地であるドレスデン国立歌劇場が爆撃で破壊されてしまったため、演劇用だったドレスデン国立劇場を使用していたことを示しています。 インスブルック大管区首都音楽学校1938年、スイトナーはインスブルック大管区首都音楽学校に入学し、1940年に卒業しています。校長のフリッツ・ワイトリヒ[1898-1952]は、1935年に着任した人物。  ワイトリヒは、スイトナー少年の入学に反対し、入学後はスイトナーが希望しても指揮者には向かないとするなど否定的だったという話が伝えられています。しかしこれは、3月にオーストリアが併合されて以来半年が経ち、インスブルックの帝国大管区指導者には元脱獄囚のホーファーが任命されるなど、着々と行政・経済のナチス・ドイツ化が進められていたことや、自分が北ドイツやズデーテン地方で味わった苦労などを踏まえてのアドバイスだった可能性が高いとも思われます。要は、ナチス・ドイツの一存でいつ潰されるかわからない学校に入学するのは賛同できないし、せっかくピアノがうまいのだから、政治の影響を受けやすい指揮者ではなく、ピアニストになって欲しいという、不安定な世情を考慮すればごく当たり前の教育的判断だったのではないかということです。  オーストリア併合による影響の波及は急速で、地区名の変更に伴う組織や施設の名称変更に加え、多くの組織が存続の危機に立たされ、ワイトリヒを雇ってくれたインスブルック音楽協会も、翌1939年に活動を停止させられています。また、併合に伴う帝国大管区の設置によるインスブルック大管区首都音楽学校(インスブルック音楽院)とインスブルック帝国大管区テアター(インスブルック市立テアター)の組織変更・人事刷新も時間の問題となっており、実際、1941年にはワイトリヒは解任されてしまいます。以下、ワイトリヒの生涯についてまとめておきます。  ウィーン生まれのワイトリヒは、ウィーンで音楽を学んでいましたが、第1次大戦によって学業を中断され徴兵、敗戦により軍務を解かれるとウィーンに戻り、1919年にウィーンのオーケストラのヴァイオリン奏者になり、1922年には、北ドイツのリューベック市立テアターに職を得て6年間滞在しています。戦前戦中には若きフルトヴェングラーが音楽総監督を務めたところですが、戦後のインフレ下で経営難に陥っており、ハイパーインフレの際には閉鎖や近隣の劇場との合併も検討されていたという状態でした。ワイトリヒはピアノがうまかったので、当初はコレペティトアとしての契約だったと考えられますが、人員不足の折り、指揮者になるのにさほど時間はかからなかったと思われます。  1928年、ワイトリヒは、ズデーテン地方のトロッパウ(現チェコ、オパヴァ)の劇場と指揮者として契約し、以後6年間滞在。ハンス・ホッターが1930年にオペラ・デビューしたことでも知られる劇場ですが、当時は民族主義が台頭してチェコのオペラの上演比率が増加しだした頃で、しかも1933年にはナチ政権が成立したため、トロッパウ周辺もきな臭くなっていました。そうした環境だったこともあり、故郷ウィーンのフォルクスオーパーから誘いがあると、ワイトリヒはすぐに帰還し、1934年のシーズンに1年ほど指揮者を務めています。  そこでの指揮ぶりが評判になったのか、1935年にはインスブルック音楽協会から声がかかり、同協会から誕生したインスブルック市立音楽院の院長に就任し、同じく市立組織のインスブルック市立テアターの指揮者も兼務、オペラとコンサートの両方を指揮することになります。  しかし1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されてからは状況が変わり、1939年にはインスブルック音楽協会は事実上活動を停止、1941年には正式に解散し、音楽院とテアターの人事も刷新、ワイトリヒは解任されてしまいます。  そのワイトリヒのもとに舞い込んできたのが、レンベルク(現リヴィウ)のオペラの音楽監督の仕事です。レンベルクは独ソ戦でドイツが占領した都市で、歴史的にユダヤ系が多かったため、そのユダヤ人たちが都市からゲットーに移されたことで(のち収容所)、オペラの音楽監督職にも空きがでていました。ドイツ直轄地ということで、戦時下でありながらオペラ上演にも多くの予算が割かれ、1942年には「アイーダ」も上演しています。このレンベルクには、当時十代のスクロヴァチェフスキも居り、ワイトリヒのリハーサルに潜り込んで勉強していたのだとか。…