ニール・ヤング回想 / Neil Young ニールヤング 【本】

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出荷目安の詳細はこちら内容詳細今も最前線で活動するロックのレジェンド=ニール・ヤングによる回想録。未発表作品、私生活、人間関係……興味深いエピソード満載。彼自身によるカラーイラスト40点も収録。いかにしてニール・ヤングは「ニール・ヤング」となったのか──そのすべてがここに。ニール・ヤングが綴る、自らの音楽人生、バンド、アルバム、曲、家族、車、楽器、スタジオ、政治、社会……音楽ファン必携の書!回想録『SPECIAL DELUXE』の日本版ついに登場!ニール自身によるカラーイラスト40点収録、原書に忠実にカラーを再現した豪華仕様、全464ページ。内容紹介●試験の悪夢「一九六四年秋、二年目の十年生で落第したわたしはケルヴィン高校を中退し、学校教育は正式に終わりを迎えた。フランス語の試験に受からなかったのだ。それから数年は、まだ学校にいて試験を受けようとしている悪夢にうなされた」(第6章)●初めてレコーディングした「サルタン」について「そうしてある日、エンサインに楽器や機材を積みこみ、ダウンタウンにあるCKRCのスタジオへ向かった。到着すると、オリジナル曲を残らず演奏した。ハリー・テイラー(註:ウィニペグのエンジニア)はじっと耳を傾け、そのなかから選んで「この二曲を録ろう」と言った。一曲は「ザ・サルタン」で、もう一曲は「イメージ・イン・ブルー」だった。どちらもシャドウズのサウンドをベースにした曲で、楽譜に書き起こしたものだ。わたしたちはあらためて日にちを決め、その日に二曲を録音することになった。一週間後、ふたたびスタジオに来て何度となく演奏する。ハリーはマイクの位置をあちこち動かし、さまざまなエコーを試し、マイクも取り替えた。とにかくあらゆる可能性を試していた。バディ・ホリーのようなべっこう縁の眼鏡に白いシャツ姿のハリーは、このうえなく真面目なエンジニアだった。 CKRCのスタジオは、ダウンタウンの中心部、カールトン・ストリートの古い煉瓦造りの建物の二階にあった。じつは、そこはわたしの父がはじめてジャーナリストとして働いた「ウィニペグ・フリープレス」がかつて入っていた建物だった。そのときは知らなかったが、わたしはカールトン・ストリート三〇〇番地で夢を追いかけていた。父が同じくらいの年齢のときに夢を追いかけはじめた場所のすぐそばで。何年かして、そのことに気づいたときに、父に連絡して話したかった。きっと父も感慨深く思ったにちがいない。あらためて、わたしたちが似た者どうしだと」(第7章)●バッファロー・スプリングフィールドについて「わたしの音楽人生では、この仲間で演奏したステージが最高だった。バッファロー・スプリングフィールドは、わたしが生まれてはじめて全力を出し尽くしたバンドだった。何ごとも、生まれてはじめて経験することには特別な思い入れがある。全員で死にもの狂いで挑み、そんなわたしたちの姿に観客は熱狂していた。……オリジナルのメンバーによる録音で質のよいものは存在せず、活動を記録した映像も残っていない。だからその名を聞くと、最盛期を知る者の胸にはほろ苦い感情がこみあげる。いま思うと、椅子に叩きつけて壊したあのギターが、いまも残りのメンバーが抱えている不満や成功のチャンスを逃したという思いの予兆だったのかもしれない」「バッファロー・スプリングフィールドはジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出演が決まったが(中略)……わたしの考えでは、『ザ・トゥナイト・ショー』はバンドともファンとも関係のないハリウッドの低俗な番組に過ぎなかった。わたしたちが歌っていることとはかけ離れていた。わたしは何の相談もなくバンドを辞めた。ジョニー・カーソンのショーには出演せず、その手の番組はリストから除外した。いま思うと、いきなりバンドを辞めなくても、スティーヴンと話し合えば自分の考えを理解してもらえたかもしれない。だが、そのころのわたしは大人ではなかった。 その結果、わたしはコルベットを失った。演奏活動をしていなかったためにローンが支払えなかったのだ。車は差し押さえられた。それは忘れられない教訓となり、以来、車は何があっても現金で買うようにした。」(第11章)●ザ・バンド、そしてディラン「(1974年……)マリブに移ってズマビーチのそばのブロードビーチ・ロードに家を借り、ザ・バンドのリック・ダンコと親しくするうちに友人となった。わたしたちは、ザ・バンドがランチハウスをスタジオに改装した〈シャングリラ〉に入り浸った。……当時はおおぜいのミュージシャンがそこに集まっていて、わたしは自宅のすぐそばにスタジオがある暮らしを満喫した。そこでリヴォン・ヘルムと出会い、アーカンソー出身の友人、ジョニー・タイソンの話を聞いた。シャングリラの冷凍庫には、ジョニーの実家が経営している〈タイソン・フーズ〉の若鶏がぎっしり詰まっていた。ある晩、ディランが来たので、わたしは新曲の「ヒッチハイカー」と「コルテス・ザ・キラー」を披露した。これまでの人生で時代とともにドラッグを使ってきたことを告白した「ヒッチハイカー」を聴いて、ディランは「正直な歌だ」と言った。あの瞬間のことは、いまも折に触れて頭によぎる。思い出すたびに笑わずにはいられない。ボブのユーモアが皮肉たっぷりだったから。ストーリーを作ることに関して言えば、あの歌はそれほど独創的ではないと、彼なりのやさしい言い方だったにちがいない。わたしがただ過去の出来事を並べただけで、新しいものは何も作り上げてはいないと」(第23章)──などなど、人間ニール・ヤング、音楽家ニール・ヤングがくっきりと浮かび上がってくる、ファンが知りたかったエピソードが満載です。